2016年7月3日日曜日

激動の地"サラエボ"を訪れて学んだこと

day.157~159 2016.6/22~24 Bosnia Hercegovina/Mostar

モスタルから2時間で"サラエボ=Sarajevo"に到着。


サラエボはボスニア・ヘルツェゴビナの首都。

サラエボって聞くと、日本人ならほとんどの人が学んでいる"サラエボ事件"が思い浮かぶと思うが、この地はそれ以外にも激動の歴史を歩んできている。

とりあえずサラエボ事件と、この地で起きたことを説明したいと思う。

"サラエボ事件"とは、1914年6月28日、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボで起きた、セルビアの青年の"ガヴリロ・プリンツィプ"がオーストリアの皇太子夫妻を暗殺した事件。

その事件がきっかけとなり"第一次世界大戦"が開戦された。

ではなぜセルビアの青年が、オーストリア皇太子を暗殺しようとしたのだろうか?

もともと、中世のヨーロッパでセルビアは超大国だったらしいが、オスマントルコに滅ぼされて併合されてしまいます。

その後、1878年にセルビアは独立を果たすことが出来たのだが、領土は以前よりも小さくなってしまった。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナは"セルビア正教のセルビア人""イスラム教徒のボシュニャク人""カトリック教徒のクロアチア人"の住居地域が入り混じった他民族国家で、もともとオスマン帝国に支配されていたが、後にオーストリア=ハンガリー帝国に占領のされ、1908年に正式に併合されてしまう。

当時のオーストリア ハンガリー帝国の領地。


暗殺を計画したセルビア人は秘密結社の一員で、彼らの思想は大セルビア主義、反オーストリア=ハンガリー帝国。そしてセルビアを昔のような大国にさせるため、ボスニアとヘルツェゴビナを併合することでした。

ボスニアを自分たちのものにしたかった彼らは、オーストリア=ハンガリー帝国にボスニアを取られ怒りに燃えていました。

【そして、暗殺計画】

6月28日、暗殺計画を知らずに視察のためオーストリアの皇太子夫妻『フランツ・フェルディナント大公と妻ゾフィー』が、サラエボを訪れます。

皇太子夫婦の訪問で賑わっていた広場に、爆弾武装したセルビア人暗殺者たちは、皇太子夫妻の車めがけて爆弾を投げる。

が、皇太子夫妻に当たらずに、近くにいた市民を巻き込み失敗。

後日テロに巻き込まれた被災者を見舞うため、皇太子夫妻が病院を訪れようとしたところ、偶然通りかかった"ガヴリロ・プリンツィプ"が発見。

自身が携帯していた銃を持ち皇太子夫妻の車へ接近し発砲!

銃弾は妻のゾフィーの腹部と、大公の首に命中。

暗殺を成功させた"ガヴリロ・プリンツィプ"は自殺を図るが、取り押さえられ失敗。

皇太子夫婦は総督府官に駆け込んだがその後死亡。


【第一次世界大戦の始まり】

皇太子夫妻を暗殺されたオーストリア・ハンガリー帝国はセルビア王国に宣戦布告し、第一次世界大戦が引き起こされたというわけだ。

第一次世界大戦の結果、戦いに敗れたでオーストリア=ハンガリー帝国はその領土の多くを喪失。
1918年:セルビア、モンテネグロとともに旧オーストリア・ハンガリー帝国領のスロベニア、クロアチア、ボスニアを合併した連合王国であるセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国が建設。


ちなみにここがまさにサラエボ事件の現場となった場所。


現在は博物館になっています。

犯行に使われたピストルも展示されている。


暗殺犯"ガヴリロ・プリンツィプ"とセルビア人秘密結社のメンバーの写真と暗殺現場で残した足跡。



暗殺されたオーストリアの皇太子夫妻『フランツ・フェルディナント大公と妻ゾフィー』


その後の歴史。

1939年~1945年:第二次世界大戦後

1945年:ユーゴスラビア連邦人民共和国(旧ユーゴスラビア)成立

1984年:サラエボオリンピック開催

第一次世界大戦が起きたサラエボでオリンピックを開催することで、平和のメッセージを全世界に伝えることを目的とされた。

が、またもや戦争。

1992年〜1995年:ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争勃発

1992年:ボスニアで内戦が生じ、支配領域の拡大をねらうムスリム、セルビア人、クロアチア人の3勢力による戦闘が3年半以上にわたり展開され、他民族を強制追放するか抹殺する"民族浄化"が相互に行われた。

民族紛争の原因はとても複雑で、そもそもボスニア・ヘルツェゴビナを含む(旧ユーゴスラビア共和國)は、

・マケドニア
・セルビア
・モンテネグロ
・クロアチア
・スロベニア
・ボスニア・ヘルツェゴビナ

の6つの共和国がチトー(ヨシップ・ブロズ・チトー)といというカリスマ的指導者によって第二次世界大戦後に一つにまとめられた国家でした。

なので、旧ユーゴスラビアには

5つの民族:セルビア人・クロアチア人・スロベニア人・モンテネグロ人・マケドニア人
4つの言語:セルビア語・クロアチア語・スロベニア語・マケドニア語
3つの宗教:イスラム教徒・カトリック教会・セルビア正教会
2つの文字:ラテン文字・キリル文字

が、複雑に存在した他民族国家だったのです。

って言っても、向こうの人が、中国人・韓国人・日本人の見分けがつかないように、
僕たちからしたら見た目で違いなんかわからないんだけどね。


の統治の難しさは後に『七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家』とも表現された。

しかし、1980年カリスマ的指導者で国をまとめていたチトーが死亡。

まず最初に1991年6月、スロベニア・クロアチア両共和国がユーゴスラビアからの独立を宣言。
セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に"十日間戦争"、クロアチアとの間に"クロアチア紛争"が勃発し、ユーゴスラビア紛争が始まる。

そこから各共和国が独立目指し対立、その中の一つ『ボスニア・ヘルツェゴビナ』も1992年に独立を宣言。

第二次世界大戦後最悪となる民族戦争が引き起こされました。


ボスニアには当時430万人が住んでいて、3つの民族が共存していました。

ボシュニャク人(ムスリム人)44%
セルビア人(33%)
クロアチア人(17%)

その3つの民族が『民族浄化』を行い戦ったのがボスニア紛争。

『民族浄化』とは、異民族に対する各種の嫌がらせや差別的な待遇、武器の没収、資産の強制接収、家屋への侵入と略奪、見せしめ的な殺人や強姦によって、その地域の異民族が退去せざるを得ない状況に追いやる方法。
強制追放、強制収容、あるいは大量虐殺によって物理的に異民族を地域から取り除いた。

ここ、サラエボでは『サラエボ包囲』と呼ばれる戦闘が行われた。
主にセルビア人とボシャニャク人による争いだ。

町の周辺に陣取るセルビア人勢力が、町を守るボスニア政府(ボシャニャク人)の軍を繰り返し攻撃した。軍事的に優位な陣地と、町への補給はほぼすべてがセルビア人勢力の手の内にあった為、セルビア人が優勢だった。


サラエヴォ包囲では、12000人が死亡し、50000人が負傷したものと推定されていて、うち85%は市民であった。殺害と強制移住によって戦時中で1995年の人口は紛争前の64%に相当する334,663人にまで減った。

サラエボ包囲は、第一次世界大戦後のサラエボの歴史の中で最悪であり、もっとも混乱した時代となった。


スナイパー通りと呼ばれる場所。


ここはサラエボが包囲された際、サラエボから抜け出せる唯一の道でした。
しかし、セルビア人のスナイパーにより常に監視され動くものは全て標的にされていた。
写真のホテルは、サラエボ包囲戦中も営業を続け、ジャーナリストを受け入れていた。


当時の通りの映像。



オリンピック会場跡地


写真のように、1984年のサラエヴォオリンピックの栄光の後の発展は全て崩壊した。

今も街の建物のほとんどには、銃弾の跡が残っている。



これらの大量殺害の中でもっとも規模の大きかったものは、1994年2月5日に発生した第一次マルカレ虐殺であり、68人の市民が死亡、200人以上が負傷した。

マルカレ虐殺を受けて、国際連合はセルビア人勢力に対して最後通牒を発し、定められた期間内に規定の範囲内から重火器を撤退させるよう求め、実施されない場合は空爆を行うと警告。

約3年半続いた紛争はNATO軍の介入で停戦。


1992年〜1995年といえばつい最近の出来事。

今は平和そうに見えるこの国でも、未だにボスニア・ヘルツェゴビナ内にはセルビア人自治区の"スルプスカ共和国"が存在している。
ということは、まだ民族同士が共存できていないということなのかもしれない。

旅をしている僕たちのとっては、国境ってただの国が変わることくらいにしか考えていなかったけど、その国境は民族同士の対立の末できてしまったものなんだということ。

相容れない民族を排除し、自分たちの住みやすいように作ったのが"国家"なのかもしれない。


また、大多数の人間は争いや戦争なんて好まない。

今のシリアのISなどもそうだが、ごく一部の過激派や思想家、権力者によって戦争が引き起こされてしまうのも現実。
第一次世界大戦の原因を作ったサラエボ事件のように、数人の武力行使で大きな戦争を引き起こしてしまいかねない。

今は安全そうに見える国でもきっと戦争になるきっかけは、そこら中にあるのかもしれない。


来る前まで全くどんな国なのか知らなかった、ボスニア・ヘルツェゴビナ。
きっとこなければ知らないままだったことも、来たことによって勉強できた。
それだけでもこの国に訪れて良かったと思う。

ここに書いた出来事はほんの一部を取り上げただけです。
全てを書こうとしたらとても書ききれないほど、この国の歴史は複雑です。
なのでこのブログを見て、つい最近でもこんな悲惨なことが起こっていたんだな。っと知ってもらうきっかけになったらと思っています。







イスラム教徒とキリスト教徒が混在する街。



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