2016年8月1日月曜日

【人類の狂気と殺戮の歴史】アウシュビッツの強制収容所で感じたこと

day.171 2016.7/6 Poland/Auschwitz

今日はクラクフからバスで"アウシュビッツ=Auschwitz"へと向かいます。


アウシュビッツと聞けば、学校で世界史を習った人はほとんど聞いたことがある名前だと思う。

第二次世界大戦中ドイツの独裁者であるヒットラーとナチスはドイツ人至高主義を掲げ、それ以外の民族、ユダヤ人を主に、政治犯、ロマ(ジプシー)、犯罪者、捕虜などを強制労働や人種差別的な大量虐殺 (ホロコースト)をするために作られた強制収容所です。

(※ナチスとはドイツのヒットラーを党首とした政党の名前)

僕が最初にアウシュビッツと聞いて思い出したのは、映画"LIFE IS BEAUTIFUL"小学生、中学生、大人になってからと複数回見た映画です。

この映画ではもちろん、学校の教科書でもあまり悲惨な映像や事実は取り上げられていなかったから、僕はアウシュビッツでここまでひどいことが行われていたということを今日、見学するまで知りませんでした。

収容所建設の命令が出たのは1940年4月、所長に"ルドルフ・フェルディナント・ヘス"が就任されました。

収容所建設当初は20の建物があり、14棟が平屋で6棟が二階建てでした。

収容者の増加とともに収容所の領土が拡大されて、巨大な絶滅工場に姿を変え、アウシュビッツⅠ(オシフィンチム)-アウシュビッツⅡ(ビルケナウ)ーアウシュビッツⅢと次々と収容所は拡大していきました。

ここに収容された人たちは130万人以上、90パーセントがユダヤ人そのうち生きて収容所を出られてのが20万人ほど。

博物館として現在公開されているのは、アウシュビッツⅠ(オシフィンチム)-アウシュビッツⅡ(ビルケナウ)の二箇所です。

アウシュビッツとはドイツ人のつけた名前で、ポーランドではオシフィエンチムという地名。

現在アウシュビッツは人類が同じような過ちを繰り返さないために、負の世界遺産として登録されています。

アウシュビッツは世界遺産としては珍しく、入場料は無料。

ガイドの代金だけで入場することができる。

これは誰もがこの収容所を訪れて、悲惨な歴史を学んで欲しいという考えから無料にしているらしい。

僕たちが訪れた時期はヨーロッパの観光シーズンだったため、ヨーロッパ各国から大勢の人が訪れていて大混雑でした。

日本語の公式ガイドは現在一人しかいないらしく、事前予約が必要だったので僕たちは仕方なく日本語のガイドブックを購入し英語のツアーに参加しました。

ガイド料:45ズオッティ(約1200円)
日本語ガイドブック:5ズオッティ(約133円)

(注)夏の時期は繁忙期なので、個人での入場はできません。

最初に"ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)"と記されている門を通り収容所へと入ります。


働けば自由になれると言われここを通った収容者の多くは、生きてこの門を出ることはできなかった。

Bの文字が上下反転しているのは、作った収容者たちのせめてもの抵抗の表れだとも言われています。

【収容所内部・アウシュビッツⅠオシフィンチム





収容所の中は有刺鉄線(高圧電流付き)で囲まれていなければ、ここで大量虐殺が行われていたとは思えないようなのどかな風景にある場所で、建物も見た目は普通のレンガの家々で団地のようでした。


有刺鉄線には人間が感電死するほどの電流が流してあった。

収容所内部の建物内には写真の展示、収容者の持ち物、当時の様子を描かれた絵などが公開されています。

建物内に入ると最初に置かれているのが、収容所で亡くなった方々の遺灰が納めらたオブジェ。




【当時撮影された写真】



ユダヤ人のために住む場所を作った!仕事もある!新天地だ!とヨーロッパの各国から騙されて連れてこられたユダヤ人たち。


【収容所内で行われていたことを絵に描いたもの】




【収容された人々の写真】


ここに写真がある人は施設に収容されて最初の方の人々。

最後の方は写真すら撮られていない、連れて来られてすぐに殺されてしまったからだ。


僕たちに一番衝撃を与えたのが、大量の髪の毛のある部屋。

ここは撮影は禁止されているので写真はありませんが、収容所に連れてこられて労働力にならない子供や女性、老人などは真っ先にガス室へ送られ殺害されました。

その際、殺害した死体から髪の毛を狩り、人間の髪の毛で生地を生産していた。


ここの光景は見た瞬間鳥肌が立つ、広い空間に大量の髪の毛が山積みにされ残されている。

この髪の量はその分だけ人間が殺されているということ。

殺害した死体から採取されたのは、髪ばかりではなく金歯は延べ棒として市場に流されました。

【収容者から押収された荷物】





殺された人たちの所持品も全て市場に流されました。


 この人々を殺害した毒ガス(チクロンB)の空き缶。


【ガス室の展示】


ガス室から焼却炉は同じ建物内にあり、工場の流れ作業のように人が殺され焼かれていったそうです。

ガス室へ送られる人々は、アウシュビッツに送られてすぐに医師による選別を受けて、労働力や実験体として使えない人々です。

選別されガス室に送られるのは主に障害者・子供・老人・女性など。

ガス室へ送られる人々は、一旦脱衣所を通ります。

ここで全員にシャワーを浴びるように信じ込ませて、ガス室へと向かわせました。(暴動を起こされないため)
服を脱いだ人々は次にシャワー室(ガス室)へと案内されます。
シャワー室(ガス室)
天井にはシャワーが取り付けてありますが、その穴から水はもちろん出てきません。

出てくるのは”チクロンB”

5~7キロのチクロンBで1500人を殺せたそうです。

もともとチクロンBは、伝染病を媒介するノミやシラミを駆除するために開発された殺虫剤。

殺された死体からは上記のように髪の毛や金歯などが抜かれ、隣にある焼却炉へと運ばれます。



アウシュビッツでは殺人工場のように"効率的に大量に流れ作業のように"人を殺していた。

死体から髪の毛を刈ったり、金歯を抜く作業や、焼却する作業はドイツ人兵士ではなく、同じ収容者(ユダヤ人)によって行われていました。(ドイツ人兵士に殺害光景や死体を見せないのは、精神的な負担を負わせないためだったそうです)

この仕事をすることで長く生きる権利が与えられたそうですが、結局その人たちも口封じのためほとんどが殺されたそうです。

さらにアウシュビッツでは収容者たちを階級ごとに分けました。

階級の上の人は待遇を良くすることで、監視役とし未然に反乱を防いでいたとも言われています。

部屋を見ると待遇の違いがすぐにわかります。

階級の上の人が住む部屋
このように監視役は部屋や食事面で優遇された。

監視係に選ばれた人は生き延びる確率が高かった。


階級の低い収容者の部屋
階級の低い収容者たちは過酷な労働、生活環境、理不尽な暴力で収容されて2〜3ヶ月しか生きられなかった。

アウシュビッツ収容所ではこうして徹底的に人間の心理を分析し、反乱を起こす気力を失わせる方法にとても長けていました。




【死のブロック】


収容所にあるコンクリートの壁。


第10と11の建物の間には壁で仕切られた空間があります。

ここでは銃による処刑が行われ、数千人が銃殺された。

銃殺されたのは主にポーランド人だった。

処刑される理由も問われずに罰せられた。

理由もなく、ムチで打たれ拷問され殺されていく収容者たち。

ここでは人の命はとても軽いものだったんだと思わされます。





【所長"ルドルフ・フェルディナント・ヘス"の家】

収容所を出てすぐの場所に所長ルドルフ・ヘスの家がありました。

ルドルフ・ヘスは家族で暮らしていて、小さな子供もいました。

朝になると自分と同じくらいの子供を大量に殺す仕事場へ出社し、仕事後に隣で何事もなかったかのように家族で暮らしていたのだろうか?

人が死んでいくのが当たり前の環境で、殺されていく人を見るのが普通のことになってしまったのか?

自分がそのような立場だったらどうしていたんだろうか?

仕事だからと割り切れて生活できたのだろか?

特殊な環境すぎて全く想像できない。

戦争終了後、ヘスは裁判にかけられアウシュビッツ収容所の絞首台で処刑された。


彼は1947年2月に手記を書き残している。

その中で最後の締めくくりに『軍人として名誉ある戦死を許された戦友たちが私にはうらやましい。私はそれとは知らず第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまった。その機械もすでに壊されてエンジンは停止した。だが私はそれと運命を共にせねばならない。世界がそれを望んでいるからだ。世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。けだし大衆にとってアウシュヴィッツ司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心を持つ一人の人間だったということを。彼もまた悪人ではなかったということを。』と書き遺した。

アウシュビッツに来て一番考えるのは、もし自分がその立場だったらどうしたのか?ということ。

ユダヤ人だったら。

ドイツ人兵士だったら。

ヘスだったら。

ポーランド人だったら。

兵士たちも全ての人間が好んでここで働いていたとも限らない。

殺人に加担したくなかったけど、加担しなければならなかった現実もあったはず。

逃れられない環境の中で、自分もその歯車に乗っかってしまうのか、身を張って反対できるのか、自分が正しいと思っていても主張したら殺されてしまう恐れがある中で、果たして自分が正しいと思える行動をとることができるのだろうか。

そんなことを考えながら次の場所アウシュビッツⅡ(ビルケナウ)へと移ります。


アウシュビッツⅡビルケナウ】

アウシュビッツⅠ(オシフィンチム)のツアーを終えて、無料シャトルでアウシュビッツⅡ(ビルケナウ)へと移動します。

ここからはガイドなしでも入れるので、僕たちは自由に見学しました。

アウシュビッツⅠ(オシフィンチム)が収容者でいっぱいになったので、そこから3キロほど離れた場所に作られた収容所がアウシュビッツⅡ(ビルケナウ)と呼ばれるものです。

この収容所は広大な面積の中に300以上のバラックが建てられ、10万人以上もの収容者がいました。

ここは4基もの焼却炉とガス室を備え、大量の殺戮が行われていた。

【ビルケナウ正門


別名・死の門。
この門を通ったら生きては帰れないと言われたことから名付けられた。

ヨーロッパ各地からこの施設にユダヤ人やロマが鉄道輸送されてきた。


収容者を輸送した貨物列車。

この狭い空間に大量に人が詰め込まれ、運ばれていたため到着した時には半数以上が死んでいた。


収容者たちが暮らすバラック。


内部は動物が暮らすような吹きっさらしの建物だけ。

現在残っているのはレンガ造りのバラック45棟と22棟の木造バラックのみ。

戦争終了後ナチスは証拠隠滅のため、ほとんどの施設を破壊してしまった。

破壊されたガス施設

人口の貯水池や池には殺害され、焼かれた人々の遺骨が細かく削られ捨てられていた。



残っている焼却施設。



そもそもなぜドイツ(ナチス)はこのような施設を作り、大量の虐殺を行わなければならなかったのだろうか?

そのことについては僕が書けるほど簡単な内容ではないので、僕たちがアウシュビッツに訪れる前に見た動画を貼っておきます。

興味のある方は是非こちらの動画をどうぞ!









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